【批評】単純な勧善懲悪的な物語が、日本人の意識を変えてしまった氣がする
いつから映画もドラマも漫画もアニメもゲームも勧善懲悪だらけになったんだろう昔の日本人はもっと善悪の境が曖昧な、大人の作品を嗜んでいたように思う今や大人でも子供向けのような単純な勧善懲悪ドラマしか見なくなっている半沢直樹や下町ロケットを「時代劇のようだ」と褒める人間が居るが、要するに底が浅いだけだいや、それ以前にそこで平気で使っている「時代劇」というイメージ自体が、水戸黄門だの遠山の金さんだののような俗悪なドラマのイメージだけで構成されてしまっている本来の時代劇というのは歌舞伎や能のような、善悪だけでは捉えられない複雑な物語だったはずだ日本に大衆文学というジャンルを確立させた大菩薩峠など、勧善懲悪どころか、勧悪懲善とさえ受け取られてしまいかねないすさまじい無常の作品だった日本人が勧善懲悪ものを好むようになってから、日本人の議論がいつしか断定的で独善的なものにになったように感じられるのは、私だけだろうか日本人の美徳とは、物事に中立であり、何においても一方だけを贔屓しない部分にこそあったのではないのか私はこのような意識の上での欧米化が、日本の文化を根底から破壊してしまわないかとても心配である追記
この日記に付いた反感の激しさに少々たじろぐと同時に、それは私の推測の正しさを証明しているとも言えると思うインターネットにおいては多くのユーザーが非常に攻撃的で、極端な主張を好む節があるが、これはこうした人々の多くが漫画・アニメ・ゲーム等のサブカルの愛好者である事と関係はないだろうか特にテレビゲームにおいては、受け手側が主人公の分身として能動的に戦うという性質上、その敵がわかりやすい悪として設定されることが多いそのようにヴァーチャルな空想で悪を懲らしめ、快感を得て育った人々が、現実でも同じようにわかりやすい悪を求めるというのは、あり得ない話ではないだろう確かに日本の文化史において、単純な勧善懲悪が好まれた時期はないではないが、しかし物語というのは所詮は受動的な楽しみにすぎないテレビゲームという能動的に勧善懲悪を楽しむ娯楽の出現こそ、日本人の意識を変えつつあるのではないのか